2008年04月12日
チベットで思うこと
久しぶりに好きな音楽を聞きながらゆっくりと過ごせています
先月に何気なく購入したCDをバックに書いているのですが、1カ月もほとんどゆっくりと聞く機会に恵まれなかったのですが、ようやく今晩ゆっくりと耳にすることが出来ました。
その中の1枚は、いわゆるオムニバス版なのですが、好きなミュージシャンばかり!!
ミルトン・ナシメント、ジューサ、ジョイス等など心地よいワールドミュージックが家の中をおおっています。
今日は昼風呂という贅沢以外は、何もせずに只々ごろごろして過ごしておりました。
う~幸せですな

いつものごとく突然話はかわりますが、最近、オリンピック聖火リレーに対する抗議活動の様子が毎日TVのニュースで流れているのを観ます。
そう、いわゆる”チベット問題”に端を発した抗議行動ですね。
毎日のTVでは、聖火リレーに対する抗議行動のみの報道がなされているだけですが、なぜ、このような大問題になっているのかをたどると、チベットにまつわる大きな問題が背景に存在するってことを聞きました
チベット問題は今回のラサ暴動が大きくマスコミに取り上げられた事から日本でも知られるようになったのですが、なぜチベットのラサで暴動が勃発したのでしょうか?
調べてみました。
チベットは、「世界の屋根」と呼ばれる地域にあり、その国土の平均標高は富士山より高い海抜4500mであり(低地でも3500m)、空気中の酸素は平地の3分の2ほどです。チベットは例えれば「アジアのバチカン」とでも言うような宗教国家で国民の5人に1人が僧侶でした。ほとんど祈る事だけで成り立つ国といっても過言ではなく、中国からではなくインドから伝わった”大乗仏教”に基づくチベット仏教を厚く信仰していました。その宗教の長が「ダライラマ法王」なのです。ダライラマ法王の下に、内政・外交ともに統治されている平和的な民族が暮らしていたのがチベットなのです。
チベットは、元々古代から独立国家だったのですが、1723-1724年に当時のチベットの王朝であったグーシ・ハーン王朝がダライラマの継承をめぐって王族内に激しい対立が生じ、モンゴル高原の有力部族連合であったオイラト族連合に属した諸部族の民族であったジュンガル部と清朝など外部勢力を導きいれての内紛を起こして衰え、清朝の雍正帝に征服されました。しかし、1911年に起こった辛亥革命により清朝は滅亡し”中華民国”が建国されました。1912年清国の滅亡後、チベットは再び独立国家となります。
この1911年の辛亥革命で中華民国の建国が宣言された際、チベットのダライ・ラマ政権は完全な独立を模索し、1913年にはモンゴルとの間で「チベット・モンゴル相互承認条約」を締結、2国が手を携えて漢人の共和政権である”中華民国”に対抗する姿勢をとります(要するに”完全独立宣言”をしたんですね)。
しかし1940年、ダライ・ラマ14世の即位式典に列席した中国国民党の使節団は、式典のちも帰国せず、1948年に強制退去させられるまで、「中華民国蒙蔵委員会駐蔵辧事処」を名乗ってラサにとどまり続けたこともありました(1947年ニューデリーで開かれた第1回アジア諸国会議にもチベットは1独立国として参加。チベット政府発行のパスポートを英米ほか各国が承認している史実から、当時のチベットは名実ともに独立国の位置付けであったことが伺えるにも関わらずに)。
清国の滅亡以来、中華民国歴代政権は独立国として存在していたチベットを「中国の一部分」だとする主張を行っていたが、北京政権時代は「軍閥の混戦」、南京国民政府時代は対日戦争への対応におわれ、独立を主張するチベットに対し圧力をかけ続けていたものの、本格的な軍事侵略は行っていませんでした。
しかし、1949年に国共内戦に勝利した中華民国は、”中華人民共和国”を建国します。そして”無宗教の社会主義国家”を樹立した中国共産党は、「チベットは中国の一部分」とする中国歴代政権の主張を踏襲し、いよいよチベット全土の「侵略」を目指して、1950年に中国人民解放軍による軍事行動を発動しチベットを軍事制圧し、1951年、中国共産党はチベット政府に「17箇条協定」を締結させ、チベット全域が中華人民共和国の実効統治下に組み入れられたのです(中国共産党は、結党直後は、かつて清朝の支配下にあった諸民族の「民族自決権」を認め、1931年に江西省で樹立した「中華ソビエト共和国」時代には、チベットを含めた諸民族に対し、「民主的な自治邦」を樹立し、「自由に中華連邦に加入し、または脱退できる」と規定する憲法を制定するなど、高度な自立性を認めていたが、1949年の「中華人民共和国」建国以降は、「チベットは中国の不可分の一部分」という主張に転じ、今に至っています)。
東西冷戦に加え、文化大革命が行われていた時期は中華人民共和国とチベット亡命政府側にまったく交渉はなかったが、1970年代末以降接触が再開、チベット側は、「完全なる独立」を取り下げ、「中国主権下の完全な自治」・「チベット全域を単位としたチベット人の自治行政単位の設定」などの主旨で妥協する提案を何度か行っているが、中華人民共和国側はこれを「形を変えた独立の主張」だとして拒否しています。
そして、ダライ・ラマ14世がインドに亡命したのには理由があります。
1955年 - 1959年に「中華人民共和国政府による併合」に抗議するチベット動乱が勃発します。1959年には事態は一層悪化、人民解放軍のダライ・ラマ14世に対する観劇招待を、ダライ・ラマ拉致の口実と疑ったラサ市民が夏の宮殿ノルブリンカ前に集結(これがいわゆる“ラサ決起”です)しました。それに対して、中国人民解放軍は大弾圧を始め、宮殿への集中砲火は41時間続き、その後砲撃は4日間におよびます。人民解放軍による解散要求の後、ダライ・ラマ14世はラサを脱出します。ダライ・ラマ14世は、国境を越える直前、「チベット臨時政府」の樹立を宣言し、インドへと亡命したのです。なおこの動乱により、宮殿は破壊されつくし、何万という民衆が殺され、数千を数えた寺院が人民解放軍の攻撃により数百に減ってしまい、仏像などにも深刻な被害が出たとされています。チベット動乱以降、最高指導者ダライ・ラマ14世、政府ガンデンポタンのメンバーらをはじめ多くの僧侶や一般農牧民たちがインドなどに亡命、十数万人から成る亡命チベット人社会を形成するに至ったのです。
ラサ市では当局の厳しい締め付けにもかかわらず、地元チベット系住民や僧侶の抵抗運動も時折発生しています。チベット動乱によりダライ・ラマ14世がラサを脱出して30周年にあたる1989年3月には、大規模な抗議運動が暴動にまで発展し、多くの死傷者を出しています(それ以降、外国人のチベット訪問には多くの制限が設けられており、中国政府により、現在でも外国メディアがチベットから自由に報道することを禁じられています)。
その後、中国共産党政府はチベット国民に対する非常に残忍な弾圧や虐殺を繰り返し行なう事でチベットを抑圧支配し続けており、さらに漢人の移民を故意に実行し現在ではチベットにおける漢人とチベット人の人口比率は逆転していると言われています。
弾圧の状況について、ダライ・ラマやチベット亡命政府から発表された一例を挙げると、2007年8月に四川省のチベット族居住地区で行われた祭りでは、「ダライ・ラマの帰還を願う」と大声で叫んだ1人のチベット族男性が当局に逮捕されたことをきっかけに、数百人の民衆と警官隊が衝突、多数の民衆が殴打されました。その数日後、軍兵士ら計約1万人が出動、住民4000人の村を包囲し、不穏分子を次々と逮捕した、またダライ・ラマが米議会から議会名誉黄金章を授与された当日の早朝、ラサでチベット仏教の僧侶数百人が受章を祝う活動を行っていたところ、4000人の武警や軍兵士が出動し、多数の僧侶を殴打し、数十人の僧侶が逮捕された、とされています。
そして、同じく49周年となる2008年3月には、3月10日のデプン寺の僧侶によるデモに始まる抗議運動が、3月14日には大規模な暴動に発展し、多くの死傷者を出しています。米国の短波放送・自由アジア放送などによると、僧侶や尼僧を含む10人あまりのチベット族がチベットの旗をふり、ビラを配りながら抗議活動を行ったところ、中国政府の武装警察が殴るなど暴力で抗議活動を鎮圧。聖職者への突然の暴力に、パニック状態になったとされています。また、300人の僧侶が参加してデプン寺からジョカン寺までデモ行進する計画があったのですが、市中心10キロの地点で武装警察に鎮圧され50人以上が連行されたといいます。
この様子が、世界各国で大々的に報道され、暴動に対し強硬策を取った中国政府は国際的な批判を浴びているのが今回のラサ暴動なのです。
「1723年から現在まで」・・・・・・気が遠くなるほどの長い年月にかけての背景がこの問題の根っこだったんですね。
オリンピック聖火リレー妨害に至った道程が整理でき、理解することが自分なりにできました。
「何も知らない」ってことは怖い。
本当の事を知ったからといって今回のように問題が大きすぎる事に対しては何も出来ないけれど・・・・・・・、でも「本当のことを知る」のは重要なことだ。
今の世の中、本質を見ずに表面だけをちょいと摘んだだけで、物事を全て知ったかのような解釈がまかり通っているように感じる。
TVのニュースでも、前後の話の脈絡は関係なしに「失言」だけをクローズアップして扱う事で善悪を判断していると感じることも多々・・・・・・・・・。
国民はそんなに「馬鹿じゃない」って言いたいけれど、シャバを見渡すと「今だけ良ければ、それでいい」刹那主義的(?)なヒトもよく見かけてしまう。
他の国に比べても、10代、20代が感じている「社会の見方」に大きな隔たりを垣間見る時がたまにあるのは気のせい?
本当のことを知らずに垂れ流し状態の今の情報社会
その犠牲になるのは私よりも下の世代のはず
せめて、物事の本質を見るための、考えるための視野起点を伝えていかなければ、そのまま歳をとってしまう子供達の未来が憂慮される
しっかりしなければ!!
もっともっともっともっと、目を向けて欲しいヒト達もいるのにね。
消えた年金に加え、働く事ができない高齢者の方々からの更なる徴収制度の確立等など・・・・・・・・
日本の政治は何処に向かっているのでしょうか?
わが国の政府は、いつまで道路特定財源の一般財政化回避や日銀人事をめぐっての堂々巡りなんかやってるんですかね
先月に何気なく購入したCDをバックに書いているのですが、1カ月もほとんどゆっくりと聞く機会に恵まれなかったのですが、ようやく今晩ゆっくりと耳にすることが出来ました。
その中の1枚は、いわゆるオムニバス版なのですが、好きなミュージシャンばかり!!
ミルトン・ナシメント、ジューサ、ジョイス等など心地よいワールドミュージックが家の中をおおっています。
今日は昼風呂という贅沢以外は、何もせずに只々ごろごろして過ごしておりました。
う~幸せですな


いつものごとく突然話はかわりますが、最近、オリンピック聖火リレーに対する抗議活動の様子が毎日TVのニュースで流れているのを観ます。
そう、いわゆる”チベット問題”に端を発した抗議行動ですね。
毎日のTVでは、聖火リレーに対する抗議行動のみの報道がなされているだけですが、なぜ、このような大問題になっているのかをたどると、チベットにまつわる大きな問題が背景に存在するってことを聞きました
チベット問題は今回のラサ暴動が大きくマスコミに取り上げられた事から日本でも知られるようになったのですが、なぜチベットのラサで暴動が勃発したのでしょうか?
調べてみました。
チベットは、「世界の屋根」と呼ばれる地域にあり、その国土の平均標高は富士山より高い海抜4500mであり(低地でも3500m)、空気中の酸素は平地の3分の2ほどです。チベットは例えれば「アジアのバチカン」とでも言うような宗教国家で国民の5人に1人が僧侶でした。ほとんど祈る事だけで成り立つ国といっても過言ではなく、中国からではなくインドから伝わった”大乗仏教”に基づくチベット仏教を厚く信仰していました。その宗教の長が「ダライラマ法王」なのです。ダライラマ法王の下に、内政・外交ともに統治されている平和的な民族が暮らしていたのがチベットなのです。
チベットは、元々古代から独立国家だったのですが、1723-1724年に当時のチベットの王朝であったグーシ・ハーン王朝がダライラマの継承をめぐって王族内に激しい対立が生じ、モンゴル高原の有力部族連合であったオイラト族連合に属した諸部族の民族であったジュンガル部と清朝など外部勢力を導きいれての内紛を起こして衰え、清朝の雍正帝に征服されました。しかし、1911年に起こった辛亥革命により清朝は滅亡し”中華民国”が建国されました。1912年清国の滅亡後、チベットは再び独立国家となります。
この1911年の辛亥革命で中華民国の建国が宣言された際、チベットのダライ・ラマ政権は完全な独立を模索し、1913年にはモンゴルとの間で「チベット・モンゴル相互承認条約」を締結、2国が手を携えて漢人の共和政権である”中華民国”に対抗する姿勢をとります(要するに”完全独立宣言”をしたんですね)。
しかし1940年、ダライ・ラマ14世の即位式典に列席した中国国民党の使節団は、式典のちも帰国せず、1948年に強制退去させられるまで、「中華民国蒙蔵委員会駐蔵辧事処」を名乗ってラサにとどまり続けたこともありました(1947年ニューデリーで開かれた第1回アジア諸国会議にもチベットは1独立国として参加。チベット政府発行のパスポートを英米ほか各国が承認している史実から、当時のチベットは名実ともに独立国の位置付けであったことが伺えるにも関わらずに)。
清国の滅亡以来、中華民国歴代政権は独立国として存在していたチベットを「中国の一部分」だとする主張を行っていたが、北京政権時代は「軍閥の混戦」、南京国民政府時代は対日戦争への対応におわれ、独立を主張するチベットに対し圧力をかけ続けていたものの、本格的な軍事侵略は行っていませんでした。
しかし、1949年に国共内戦に勝利した中華民国は、”中華人民共和国”を建国します。そして”無宗教の社会主義国家”を樹立した中国共産党は、「チベットは中国の一部分」とする中国歴代政権の主張を踏襲し、いよいよチベット全土の「侵略」を目指して、1950年に中国人民解放軍による軍事行動を発動しチベットを軍事制圧し、1951年、中国共産党はチベット政府に「17箇条協定」を締結させ、チベット全域が中華人民共和国の実効統治下に組み入れられたのです(中国共産党は、結党直後は、かつて清朝の支配下にあった諸民族の「民族自決権」を認め、1931年に江西省で樹立した「中華ソビエト共和国」時代には、チベットを含めた諸民族に対し、「民主的な自治邦」を樹立し、「自由に中華連邦に加入し、または脱退できる」と規定する憲法を制定するなど、高度な自立性を認めていたが、1949年の「中華人民共和国」建国以降は、「チベットは中国の不可分の一部分」という主張に転じ、今に至っています)。
東西冷戦に加え、文化大革命が行われていた時期は中華人民共和国とチベット亡命政府側にまったく交渉はなかったが、1970年代末以降接触が再開、チベット側は、「完全なる独立」を取り下げ、「中国主権下の完全な自治」・「チベット全域を単位としたチベット人の自治行政単位の設定」などの主旨で妥協する提案を何度か行っているが、中華人民共和国側はこれを「形を変えた独立の主張」だとして拒否しています。
そして、ダライ・ラマ14世がインドに亡命したのには理由があります。
1955年 - 1959年に「中華人民共和国政府による併合」に抗議するチベット動乱が勃発します。1959年には事態は一層悪化、人民解放軍のダライ・ラマ14世に対する観劇招待を、ダライ・ラマ拉致の口実と疑ったラサ市民が夏の宮殿ノルブリンカ前に集結(これがいわゆる“ラサ決起”です)しました。それに対して、中国人民解放軍は大弾圧を始め、宮殿への集中砲火は41時間続き、その後砲撃は4日間におよびます。人民解放軍による解散要求の後、ダライ・ラマ14世はラサを脱出します。ダライ・ラマ14世は、国境を越える直前、「チベット臨時政府」の樹立を宣言し、インドへと亡命したのです。なおこの動乱により、宮殿は破壊されつくし、何万という民衆が殺され、数千を数えた寺院が人民解放軍の攻撃により数百に減ってしまい、仏像などにも深刻な被害が出たとされています。チベット動乱以降、最高指導者ダライ・ラマ14世、政府ガンデンポタンのメンバーらをはじめ多くの僧侶や一般農牧民たちがインドなどに亡命、十数万人から成る亡命チベット人社会を形成するに至ったのです。
ラサ市では当局の厳しい締め付けにもかかわらず、地元チベット系住民や僧侶の抵抗運動も時折発生しています。チベット動乱によりダライ・ラマ14世がラサを脱出して30周年にあたる1989年3月には、大規模な抗議運動が暴動にまで発展し、多くの死傷者を出しています(それ以降、外国人のチベット訪問には多くの制限が設けられており、中国政府により、現在でも外国メディアがチベットから自由に報道することを禁じられています)。
その後、中国共産党政府はチベット国民に対する非常に残忍な弾圧や虐殺を繰り返し行なう事でチベットを抑圧支配し続けており、さらに漢人の移民を故意に実行し現在ではチベットにおける漢人とチベット人の人口比率は逆転していると言われています。
弾圧の状況について、ダライ・ラマやチベット亡命政府から発表された一例を挙げると、2007年8月に四川省のチベット族居住地区で行われた祭りでは、「ダライ・ラマの帰還を願う」と大声で叫んだ1人のチベット族男性が当局に逮捕されたことをきっかけに、数百人の民衆と警官隊が衝突、多数の民衆が殴打されました。その数日後、軍兵士ら計約1万人が出動、住民4000人の村を包囲し、不穏分子を次々と逮捕した、またダライ・ラマが米議会から議会名誉黄金章を授与された当日の早朝、ラサでチベット仏教の僧侶数百人が受章を祝う活動を行っていたところ、4000人の武警や軍兵士が出動し、多数の僧侶を殴打し、数十人の僧侶が逮捕された、とされています。
そして、同じく49周年となる2008年3月には、3月10日のデプン寺の僧侶によるデモに始まる抗議運動が、3月14日には大規模な暴動に発展し、多くの死傷者を出しています。米国の短波放送・自由アジア放送などによると、僧侶や尼僧を含む10人あまりのチベット族がチベットの旗をふり、ビラを配りながら抗議活動を行ったところ、中国政府の武装警察が殴るなど暴力で抗議活動を鎮圧。聖職者への突然の暴力に、パニック状態になったとされています。また、300人の僧侶が参加してデプン寺からジョカン寺までデモ行進する計画があったのですが、市中心10キロの地点で武装警察に鎮圧され50人以上が連行されたといいます。
この様子が、世界各国で大々的に報道され、暴動に対し強硬策を取った中国政府は国際的な批判を浴びているのが今回のラサ暴動なのです。
「1723年から現在まで」・・・・・・気が遠くなるほどの長い年月にかけての背景がこの問題の根っこだったんですね。
オリンピック聖火リレー妨害に至った道程が整理でき、理解することが自分なりにできました。
「何も知らない」ってことは怖い。
本当の事を知ったからといって今回のように問題が大きすぎる事に対しては何も出来ないけれど・・・・・・・、でも「本当のことを知る」のは重要なことだ。
今の世の中、本質を見ずに表面だけをちょいと摘んだだけで、物事を全て知ったかのような解釈がまかり通っているように感じる。
TVのニュースでも、前後の話の脈絡は関係なしに「失言」だけをクローズアップして扱う事で善悪を判断していると感じることも多々・・・・・・・・・。
国民はそんなに「馬鹿じゃない」って言いたいけれど、シャバを見渡すと「今だけ良ければ、それでいい」刹那主義的(?)なヒトもよく見かけてしまう。
他の国に比べても、10代、20代が感じている「社会の見方」に大きな隔たりを垣間見る時がたまにあるのは気のせい?
本当のことを知らずに垂れ流し状態の今の情報社会
その犠牲になるのは私よりも下の世代のはず
せめて、物事の本質を見るための、考えるための視野起点を伝えていかなければ、そのまま歳をとってしまう子供達の未来が憂慮される
しっかりしなければ!!
もっともっともっともっと、目を向けて欲しいヒト達もいるのにね。
消えた年金に加え、働く事ができない高齢者の方々からの更なる徴収制度の確立等など・・・・・・・・
日本の政治は何処に向かっているのでしょうか?
わが国の政府は、いつまで道路特定財源の一般財政化回避や日銀人事をめぐっての堂々巡りなんかやってるんですかね

Posted by tokan at 05:06│Comments(0)│TrackBack(0)
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